世界最高額のギター
クラプトンが設立したドラッグとアルコールのリハビリ施設、クロスロード・センターを支援するために、ブラッキーをクリスティーズの競売に出品。これを楽器チェーン店を経営するギター・センターが95万9500ドルで競り落とし、史上最も高価なギターとなった(これは2004年に260万ドルで競り落とされるまで続いた記録)。
2006年11月24日、フェンダー社はブラッキーを復刻して限定275本を販売。発売後の数時間で売り切れ、収益の一部はクロスロード・センターへ寄付された。
世界三大ギタリストと評される内の一人、エリック・クラプトン(他二人はジェフ・ベック、ジミー・ペイジ)。"ギターの神"と評されることもあります(もちろんジミ・ヘンドリックスは別格です)。ギタリストとして、ボーカリストとして、作曲者として常に第一線で活躍し、60年代から現在に至るまで活動を続けているアーティストです。
彼の人生は常に苦悩に彩られていました。周りの人間の死(彼の親友であるジミ・ヘンドリックス、スティーヴィー・レイヴォーン、また実の息子の死など)、恋の苦悩(ビートルズのギタリスト、ジョージハリソンの妻パティとの三角関係)、アルコール中毒、ドラッグ中毒など。。。
しかし彼は苦境が訪れるたびに、時には親友の力を借りて、それを乗り越え自らの音楽に深みを加えてきました。
Biography
1945年3月30日 生 英サリー州リプレー
母親は当時16歳の未婚の母で、生まれたばかりのクラプトンを残して別の男と駆け落ちをしてしまいます。そのためクラプトンは母親の両親(祖父母)に引き取られることとなりました。10代になりマディ・ウォーターズやロバート・ジョンソンの影響によりブルースにのめりこむようになります。遂には祖父母に頼み込んでアコースティック・ギターを買ってもらうことになりました。’60年代初頭、学生時代の友人にルースターズを紹介されるも、半年ほどで解散。そんな時、
ヤードバーズからのオファーがクラプトンのもとに転がり込んできました。このヤードバーズに参加したことがクラプトンにとってもヤードバーズにとっても大きな転機となるのでした。
ヤードバーズ(The Yardbirds)時代
ローリング・ストーンズが全米デビューしたことで、数多くのクラブからバンドの出場枠が空きました。そんな中にストーンズの後釜として抜擢されたのがヤードバーズでした。クラブの中で徐々に人気を博していったヤードバーズに目をつけた一人の男がプロデューサーのジョージオ・ゴメルスキーです。彼とマネージメント契約を結んだヤードバーズは念願のメジャー・デビューを果たし、全国規模のツアーをこなし、バンドの知名度は上昇していきました。
ゴメルスキーはさらに売れるためにブルースよりも多くの一般に受け入れられるポップ路線にバンドを走らせようとします。そのためゴメルスキーは3rdシングルに「For Your Love」を用意します。明らかなヒット・チャート狙いのゴメルスキーのやり方に不満を抱いたクラプトンは「For Your Love」で完全にキレてヤードバーズを脱退するのでした。
ブルース・ブレイカーズ(John Mayall & The Bluesbreakers)時代
次にクラプトンが加入したのは、当時のブリティッシュ・ブルース・シーンで人気を誇っていたジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズでした。そこで残した作品『Bluesbreakers With Eric Clapton』は今でも名盤として名高い作品です。
クリーム(Cream)時代
その後、自分の音楽性の追及により’66年に“史上最強のロック・トリオ”クリームを結成。3人のアドリブの応酬によるライヴが話題を呼び絶大な人気を誇ることになります。しかし、3人の個性が衝突して出来上がるものだっただけに確執も深まりクリームは’68年に解散してしいます。
数々の苦悩を経て…
次にクラプトンは当時スーパー・バンドと呼ばれたブラインド・フェイスを結成、しかしこの頃からドラッグとアルコールに入り浸るようになっていくのでした。
その後、ブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーで出会ったデラニー&ボニーの影響でデレク&ザ・ドミノスを結成するも’71年に解散。その後しばらくドラッグとアルコールに入り浸る隠遁生活を続けます。
リハビリによってドラッグとアルコールを克服したクラプトンは『461 Ocean Boulevard』で完全復活を遂げます。以降クラプトンは独自のソロ路線を突き進むも彼に"愛する息子の死"という悲劇が訪れたのでした。これに対しクラプトンは鎮魂歌として「Tears In Heaven」を息子に捧げます。この曲により幅広いファン層を獲得することとなりました。(1992年に全米シングルチャート第2位を記録)
近年、ロバート・ジョンソンのカヴァー・アルバム『Session For Robert J』をリリース、ジョン・メイヤーとの競演など、彼のブルースの旅は今も続いています。
ギタープレイの特徴
ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズ、クリームでのプレイ、ブラインド・フェイスの全米ツアーで知り合ったデラニー&ボニーの南部ロックへの憧れに始まる後のソロ作から現在まで、直接的であれ、間接的であれクラプトンは一貫して大枠でブルースというスタイルを離れたことはありません。
1992年のアンプラグド(Unplugged) 大成功後に、全曲ブルースのカヴァー集"From The Cradle"を発表したことなどを思い出してもらえば、このこと理解できるでしょう。クラプトンにとってブルースとは、いわば「絶対的なもの」としてあり、「永遠の憧れ」であり、「信仰」であり、常に戻っていける「安息の地」なのです。
ブラッキー (Blackie) は、エリック・クラプトンが愛用したフェンダー・ストラトキャスターに名付けられた愛称。および、この個体をもとにフェンダー社のカスタムショップが製造販売したストラトキャスターの商品名。
「BLACKIE」はフェンダー社の商標として登録され、Rマークが添付されている。
歴史
クラプトンは1970年にジミ・ヘンドリックスとブラインド・フェイスのバンドメイトであるスティーヴ・ウィンウッドの影響を受け、それまで使用していたギブソンのギターではなく、ストラトキャスターを使用するようになった。始めに使っていたストラトキャスターは2カラー・サンバースト(ブラウン・サンバースト)のフィニッシュだったので、ブラウニーという名前を付け、『いとしのレイラ』で使用した。
同じ年、クラプトンはナッシュビルにあるショー・バッドの楽器店に入り、ここで6本のヴィンテージ・ストラトキャスターをそれぞれ"一本たった100ドル"で購入した。6本のうち3本をジョージ・ハリスン、ピート・タウンゼント、スティーヴ・ウィンウッドに譲り、残された3本を分解して最良のパーツを選び出して(1956年~1957年のものだった)、このブラッキーを組み上げた。この名前の由来はフィニッシュがブラック(黒)だったからである。同年代のストラトキャスターで黒はオプションのカラーだった為、非常にレアなものである。
同じ年、クラプトンはナッシュビルにあるショー・バッドの楽器店に入り、ここで6本のヴィンテージ・ストラトキャスターをそれぞれ"一本たった100ドル"で購入した。6本のうち3本をジョージ・ハリスン、ピート・タウンゼント、スティーヴ・ウィンウッドに譲り、残された3本を分解して最良のパーツを選び出して(1956年~1957年のものだった)、このブラッキーを組み上げた。この名前の由来はフィニッシュがブラック(黒)だったからである。同年代のストラトキャスターで黒はオプションのカラーだった為、非常にレアなものである。
ストラトキャスターは当時ジャガーやジャズマスターにシェアを奪われ、不人気機種とされていた為、一時生産打ち切りを真剣にフェンダー社が考えたほどであったことから、楽器店のみならず質屋でも捨て値同然で売られていたため、クラプトンもこれだけのギターをまとめて買うことができたという事情がある。その後ジミ・ヘンドリクスの登場によってストラトキャスターが再評価されるまでこの傾向は続いた。現在では一本数万ドルで取引される個体も存在することは周知の事実である。
初めて演奏されたのは1973年1月13日で、アルバム『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』にその模様が残されている。クラプトンはその後もステージ、スタジオ、プライベートと弾き続けて、ヒット作を多数残す。しかし1985年に行われたハートフォードでの公演を最後に、老朽化を理由にブラッキーを引退させてしまう。毎日のように弾き続けていたため、メイプル製ネック自体の木材が大きく磨り減り、スキャロップ指板のようだったという。